野村克也さんの最愛の妻、沙知代さんが85歳で突然お亡くりになりました。
ダン野村さんと野村克也さんは、8日に病院から都内の自宅へ帰宅した際、
報道陣の取材対応していましたが、その時のダン野村さんが印象的だったので、
この記事で紹介したいと思います。
ダン野村さんが野村克也さんを支える姿
この写真で野村克也さんの横にいるのが、ダン野村さん。
この取材では、野村沙知代さんの最後となった日の状況について、
精一杯答えている野村克也さんを横で支えているダン野村さんの姿が印象的でした。
最愛の奥様とお別れとなった克也さん。悲しみは隠せなかったようにも思えました。
「我々もうこんな歳だから、俺の方が先に逝くだろうと話していたのに…」
と肩を落とし憔悴した様子をみせながらも、気丈に言葉をつないで丁寧に対応していた、
野村克也さんのコメントを紹介します。
「昨日までは普通に元気でした。兆候は全くなかった。突然のことでびっくりしています。突然死みたいなものだと思います」
その日の朝も朝食をともにし、容体の悪化などは感じられなかったそうです。
ただ、やはり兆候はあったようで、
「朝、ご飯を食べていて。一口だけ食べたらいらないとなり…。そのあたりからおかしいなと」。
その後は何を問いかけても返事ができない状態となってしまって、
午後には病院へ搬送ということになりました。。
「どんな奥様でしたか?」という問いかけには
「いい奥さんでしたよ」とうなずいて答えていたことも、
ノムさんらしい言いっぷりだったと思います。
ダン野村さんって?
生い立ち
1957年5月17日、駐日米軍将校であったユダヤ系アメリカ人の
アルヴィン・エンゲルさんと伊東芳枝(後の野村沙知代)との間に生まれました。
勉強もできたそうで、東京都調布市内の高校から、
カリフォルニア州立大学群の理工科大学を卒業されています。
1978年、母親の再婚とともに、野村克也さんの継子となりました。
プロ野球選手時代
プロ入りは1977年。
ヤクルトスワローズにドラフト外でテスト生として入団。
ポジションは内野手でしたが、
残念ながら一軍公式戦出場はないまま退団。
選手登録名は、入団当初は「伊東 克明」で登録。
1979年から1981年までは「野村 克晃」の名前で選手登録していました。
退団後にダン野村誕生
退団後ですが、テレビでメジャーリーグの解説などを行っていました。
そんなこともあって、ダン野村さんは、エージェントを目指します。
野村さんは渡米後、本格的にエージェントとして活動するようになりました。
1993年にマック鈴木さんの代理人を請負。
シアトル・マリナーズとのマイナー契約を見事に締結してしまいます。
これを機に、日本人選手の代理人としての第一歩を踏み出したことになります。
その年、ロサンゼルス市に「ダン野村オフィスを設立しました。
1995年には、当時近鉄に所属していた野茂英雄さんのメジャーリーグ挑戦時に代理人として登場しました。
この時はほんとに話題になりましたよ。
この際、野村はMLBコミッショナー事務局を通じて、
「日本の球団を任意引退した選手の海外球団への移籍の可能性」
についての質問状を日本コミッショナー事務局に送付した。
この質問状に対して事務局側は
「日本の任意引退選手が現役復帰する際に日本国内を選ぶ場合は保有権を有する球団が優先される。海外球団とならば契約できる」と返答した。
結果、日本におけるプロ野球協約の盲点を突く形で[4]、
野茂のMLB挑戦が可能であることを示した。
2010年11月、ポスティングシステムでのメジャー移籍を目指した岩隈久志の代理人を務め、最高額を入札したオークランド・アスレチックスと交渉を行う。
交渉は難航し、22日にはアスレチックスとの交渉決裂が報じられました。。
翌2011年8月には岩隈さんが代理人を「ポール・コブ」さんに変更されていました。
まとめ
ダン野村。野村克也を支える現在の姿に恩返しをみた
ということで、この記事では、ダン野村さんが「お父さん」想いであったことを、
少しでも多くの人に伝えればと思い記事にしています。
野村沙知代さんが亡くなられたという事実には、ほんとに驚きですが、
お疲れのでているノムさん(野村克也さん)のコメントには、
ホント奥様への想いがくみ取れるそんな気がしました。
野村克也氏「突然死のような…いい奥さんでしたよ」 https://t.co/KQRBcq6N3f #野村克也 #野村沙知代
— 日刊スポーツ (@nikkansports) 2017年12月8日
よくテレビで見かけていた人がお亡くなりになって、やはり寂しいです。
心からご冥福をお祈りします。